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Value One Summer 2016 No.53より
郷愁を誘うブリキのロボット
世界を席巻したモノづくりの礎
今やアンティークとして、コレクターの間で数十万円の値段で取引されることもあるブリキ玩具。かつて日本はブリキ玩具の世界最大の生産国として一世を風靡し、国内だけでなく欧米の子供たちも魅了した。
ブリキはスズをめっきした鋼板で、美しい金属の光沢や耐食性、溶接性などに優れた特性を持ち、缶詰や飲料缶などの用途に用いられている。何より特徴的なのは印刷に適していること。紙と同じようにオフセット印刷が可能なため、多彩でリアルな色を表現できる。
ブリキ玩具は文字通りブリキでつくられたおもちゃのことである。薄さ約0.3ミリのブリキの板で形づくられた筐体にゼンマイやモーターを内蔵し、ロボットや自動車、船、人形など多種多様なアイテムが生み出された。
その歴史は古く、初めてつくられたのは19世紀半ばのドイツ。日本には明治初期に伝わり、第一次大戦後に安くて質の良い日本製のブリキ玩具が欧米へ輸出され始めた。第二次大戦後は米国内のブリキ玩具の供給不足に応える目的で、食料との交換貿易の対象として本格的に生産が拡大。貴重な外貨を稼ぐ輸出品の一つとして政府も製造を奨励し、ドイツを抜いて世界一の生産国となった。
当時、日本のブリキ玩具のほとんどが東京の墨田区や葛飾区の町工場でつくられた。ピーク時の1960年代には約300社のブリキ玩具メーカーが集積。金属印刷やプレス、部品など関連する工場も合わせ、ブリキ玩具の一大生産地として賑わった。
埼玉県三郷市にあるメタルハウス。同社は今や国内に2社しかないブリキ玩具メーカーの一つだ。前身のマルミヤ工業が51年に墨田区で創業した。「昔は米国からバイヤーが流行のデザインを持参して、発注したほど。国内も高度成長期に重なり、ブリキ玩具は飛ぶように売れた」と宮澤勝政社長は振り返る。
しかし、70年頃を境に、ブリキ玩具は衰退の道を辿る。軽くて精巧に形を再現できるプラスチックの登場や、台湾・香港などでブリキ玩具が安く製造できるようになったためだ。
創業者である父親が他界した後、いったんは工場を閉めたものの、「テレビ番組で昔のブリキ玩具が高値で鑑定された」ことからブームが起き、89年に弟の恒利氏とメタルハウスを設立。しかし、そのブームも10年ほどで落ち着き、現在は三郷に移転して、細々とブリキ玩具の製造を続けている。
「今は米国のコレクター向けにネット販売をしているが、この先は商売として成り立たないだろう」と話す宮澤社長。新作をつくるためには百種類もの金型が必要だが、その費用に少なくとも1千万円はかかるほか、歯車などの部品メーカーも年々廃業しているという。「それでも自分たちにできるものを最後までつくり続けたい」と伝統の灯を守る心づもりだ。
今では人々の郷愁を誘うアイテムとなったブリキ玩具。その温かい質感の中には、自動車や家電などに通ずる、世界を席巻した日本のモノづくりの礎が凝縮されている。
ブリキ玩具を組み立てる宮澤勝政社長
昭和初期のブリキの自動車(大阪ブリキ玩具資料室所蔵)
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